白く輝く刃は美しいが、脆い。
山で使うなら、自らの手で「黒く」染め上げろ。
それが、オピネルを持つ者の最初の仕事だ。
鋼(はがね)の宿命
登山者のポケットには、必ずと言っていいほどOpinel Carbon Steel No.8が入っている。
19世紀から変わらぬデザイン、ブナの木のハンドル、そして鋭い切れ味。フランスのサヴォワ地方で生まれたこのナイフは、世界で最も愛されているアウトドアツールの一つだ。
しかし、このナイフの真価は「買ったそのまま」の状態では発揮されない。
私がレスキューの現場で見る「失敗」の多くは、準備不足(バグ)から生じる。
ナイフにおいても同じだ。
店で売られている銀色に輝くオピネルは、確かに美しい。だが、それは「未完成」の美しさだ。
カーボンスチール(炭素鋼)は、放っておけばすぐに赤錆に侵される。
湿気、雨、あるいは切った果物の酸。
山の環境は過酷だ。何もしなければ、いざという時に刃がボロボロになっていることもあるだろう。
赤錆は道具を殺す。切れないナイフなど、ただの鉄屑だ。
だからこそ、私たちは「儀式」を行う。
赤錆が出る前に、意図的に別の錆でコーティングしてしまうのだ。
それが、黒錆(Black Rust)加工だ。
黒き盾を纏う
黒錆(四酸化三鉄)は、赤錆(三酸化二鉄)とは異なる。
赤錆が鉄をボロボロに腐食させるのに対し、黒錆は鉄の表面に緻密な被膜を作り、酸素や水分を遮断する。
いわば、鉄自身の身を守る「盾」だ。
日本刀の鍔(つば)や、南部鉄器が黒いのも同じ理由だ。
この加工に必要なものは、驚くほど身近なものだ。
濃いめの紅茶と、酢。この2つだけ。
紅茶に含まれるタンニンと、酢の酸が反応し、カーボンスチールを漆黒に染め上げる。
手順はシンプルだが、決して雑に扱ってはいけない。
まずは刃を研ぐ。工場出荷時の刃は、防錆油が塗られているし、切れ味も最高の状態ではない。
耐水ペーパーで表面を磨き、油分を完全に落とす。ここで手を抜くと、黒錆にムラができる。
脱脂には中性洗剤か、パーツクリーナーを使うといい。
指紋も油分だ。素手で触れることも許されない。
次に、魔法の液体を作る。
紅茶のパックを通常の倍の濃さで煮出す。色は濃い褐色になるまで待つ。
そこに酢を混ぜる。割合は紅茶7に対し、酢3くらいだ。
まだ温かいその液体に、脱脂した刃を静かに沈める。
数分もしないうちに、刃の表面から小さな泡が立ち昇り始める。
化学反応が始まった合図だ。
私はこの時間が好きだ。
静かな夜、琥珀色の液体の中で、銀色の刃がゆっくりと変化していく様を見守る。
それは、単なる化学実験ではない。
「これからよろしくな」という、道具との契約の時間だ。
道具から相棒へ
2時間もすれば、反応は終わる。
液体から取り出した刃は、もはや以前の姿ではない。
光を反射しない、マットな漆黒。
濡れたような深い黒は、どこか禍々しくもあり、同時に頼もしくもある。
水で洗い流し、ドライヤーで完全に乾かし、最後に椿油かオリーブオイルを薄く塗る。
ハンドルに刃を戻し、ロックリングを回す。
「カチッ」という音が、完了の合図だ。
黒く染まったオピネルは、昨日までの「Amazonで買った商品」とは違う。
あなたが手をかけ、時間をかけ、守りを施した「相棒」だ。
山でロープを切る時、木の枝を削る時。
その黒い刃を見るたびに、あなたは思い出すだろう。
あの夜、紅茶の香りがする部屋で、このナイフと向き合った時間を。
その記憶こそが、極限状態での自信になる。
「俺のナイフは大丈夫だ」という確信が、焦りを消し、冷静な判断を生む。
リスクを管理せよ
勘違いしてはいけないのは、黒錆加工をしたからといってメンテナンスフリーになるわけではないということだ。
黒錆も使っていれば剥がれるし、油断すれば赤錆も出る。
だが、その変化に気づけるようになる。
「あ、少し黒錆が薄くなってきたな」「そろそろ手入れが必要だな」
道具の声が聞こえるようになるのだ。
最新のステンレススチールのナイフは、確かに錆びないし、手入れも楽だ。
だが、私はあえてカーボンスチールを選ぶ。
手がかかるからこそ、愛着が湧く。
錆びるという「弱点」があるからこそ、それを補うための知恵と技術が身につく。
それは、自然の中で生き抜くためのマインドセットそのものだ。
完璧な道具などない。あるのは、使い手が完璧に管理した道具だけだ。
オピネルNo.8。
その黒い刃には、あなたのサバイバルへの意志が宿っている。
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